土塁の上からの眺め。大きな木々が伐られているので、結構な高さが実感できる。 |
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都幾川リバーサイドパーク側から土塁を見上げると、空堀もわかり、また河岸段丘の急峻な崖も実感できる。 |
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案内板にはわかりやすい説明があり、長い間要衝であったことがわかる。 |
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城山稲荷 |
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「高坂城」とも言われていたので・・・か、土塁の下に城山稲荷がある。お稲荷さんなので寺の境内にある神社。 |
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加賀爪氏累代の墓 |
昭和五年「埼玉県指定旧跡」土塁の一段高い北端にある。 |
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現地案内板より転記 |
加賀爪氏は、徳川家に仕えて禄高一万石を領し、この地に陣営をおいた領主です。しかし、天和元年(1681年)に加賀爪氏は、その家禄を断絶させられました。 |
加賀爪政尚は、徳川家康に仕え、長久手の戦、小田原征伐に戦功があり、比企と相模国高座(神奈川県高座郡)に三千石を領しました。加賀爪忠澄は、関ヶ原の戦、大阪の役に戦功があり五千五百石を領し、江戸町奉行に登用されました。加賀爪直澄は、旗本中の乱暴者として通ったようですが、書院番隊長、寺社奉行等を勤めました。また、茶道にも通じていたらしく、鶴陽舎一明、別に、名月庵鑑とも号していたと伝えられています。 |
加賀爪氏は、直澄の代に成瀬氏との間で領地問題をおこし、天和元年(1681年)に領地を没収されています。 |
注)現地案内板は年号の誤記があり修正記載 =長い間修正されていないと思われる |
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高済寺 |
曹洞宗のお寺。号を法音山多門院。 |
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山門 |
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本堂 |
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石橋 |
高坂氏館(高済寺)の河岸段丘下には市指定歴史資料の石橋が往時のままあります。 |
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明治17年の2万分の1古地図によると、高坂氏館土塁は今より南に長くある。余談だが、この当時の都幾川の蛇行はすごい。今は都畿川リバーサイドパーク内に蛇行の痕跡の水辺がある。 |
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