比企地域の戦国時代 |
長享の乱(ちょうきょうのらん)の長享2年(西暦1488年)の状況 お互いの勢力範囲の境界に比企地域が位置していた。 |
 |
埼玉県立嵐山史跡の博物館の展示パネルから |
|
参考情報: |
【長享の乱】長享元年(1487)〜永正2年(1505) |
山内上杉氏と扇谷上杉氏の紛争 |
*松山城の戦い |
上杉顕定(関東管領,本拠鉢形城,山内上杉家)と上杉定正(本拠河越城,扇谷上杉家)が戦った。 |
*須賀谷原の戦い(長享2年6月18日) |
上杉顕定は6月に河越城(上杉定正)を襲おうとするが、今度は先に上杉顕定に反逆して逃亡していた長尾景春が足利政氏(古河公方)の援軍を引き連れて上杉定正軍に加勢し、上杉顕定軍を退けた。 |
*高見原の戦い(長享2年11月15日) |
上杉定正軍が鉢形城に攻め寄せたため、上杉顕定軍は高見原で迎え撃ったが敗北した。 |
埼玉県立嵐山史跡の博物館資料、ウィキペディアによる |
|
おことわり: |
比企地域には地名の由来となった鎌倉衆の比企一族の地です。鎌倉街道上道などあることから戦国時代以前、鎌倉時代の史跡も本当に数多くあります。ここではこの地域が歴史の舞台となった戦国時代に焦点をあてた内容にしています。 |
|