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 2023.9/28更新

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平成26年野球殿堂入り

 相田暢一氏

 2014年1月17日 公益財団法人野球殿堂博物館から野球殿堂入りに決定した4氏が発表されました。

野球プレーヤーからは野茂英雄さん、秋山幸二さん、佐々木主浩さんが殿堂入りし、特別表彰者として、故・相田暢一(あいだちょういち)さんが新たに殿堂入りしました。特別表彰は、日本のアマチュア野球界で日本の野球に顕著な貢献をした人などが対象で、プロ野球の役員や元役員、アマチュア野球の役員、野球関係学識経験者が投票し75%以上の得票を獲得する必要があります。

故・相田暢一氏は、高坂丘陵の「四季の丘」に在住され、平成24年4月17日逝去されました。

 氏は、1921年5月19日北海道小樽市に生まれ、昭和15年(1940年)旧制の小樽中学から早稲田法律科に進学。中学で投手をやっていたため、あこがれの早稲田野球部に所属し、やがてバッティング投手として起用された。早稲田野球部は1901年当時の安部教授が創部され、以後大学野球の名門となっていった。1903年には第一回の早慶戦が行われた。早大野球部の拠点は、戸塚に作られた専用の戸塚球場と部室が活動拠点となった。この戸塚球場も昭和24年に安部氏が逝去され名称も安部球場に変わった。

 東京六大学連盟 (早稲田、慶応、明治、法政、立教、東大)は大正14年、最後に東大が加わり連盟が結成され、翌大正15年には摂政杯が下賜されリーグ戦勝者に渡される事になった。安部氏は昭和5年にリーグ会長に就任。大学野球の名門早稲田には多くの入部候補者が集まり、暢一氏は昭和15年8月には多くの入部希望者の中で正式に野球部員として入部が許された。また1年の学年末試験では部員として今までに無く成績優秀で優等生となり、早稲田野球部の中でも評価された。昭和16年、2年生の夏練習中に肩を痛め以後早大野球部のサブマネジャーになり、翌17年9月にチーフマネジャーに昇格。学業は当初の法律科から一時文学部に在籍し、18年4月には再度法学部の試験を受け1年生として在籍。18年12月に激しくなった戦争により生まれ故郷の小樽市に帰り、学徒出陣として徴兵検査を受け、海軍航空隊での訓練後九州 鹿野(かのや) 航空艦隊偵察部隊に配属された。

 学徒出陣の前、昭和17年秋には最後のリーグ戦があり早稲田が優勝。18年になると文部省からリーグ解散命令が下った。大学野球に対する圧力は強まるばかり、この頃から暢一氏はこの危難を越えたら再び早稲田は野球を続けられるよう、バットやボールを買い集め始め、バット300本、ボール300ダースを集めた。これらは戸塚に備蓄され空襲の最中、後輩達がそれらを無事守り通した。 最後の早慶戦が行われたのは、このような状況の中である。

 暢一氏は、出征する学生達をねぎらい、また心のよりどころとして、どうしても再度早慶戦を挙行したかった。この話を慶応大学にすると慶応側は非常に前向きで、是非やりたいと言うことだったが、早稲田は全く消極的で総長との直談判でも許可が下りない。当時の野球部長の外岡教授の独断で実施することになった。場所は早稲田の戸塚球場、双方の選手は10時には球場に入り、午前中に試合を終わらせるという約束だったが、12時から試合開始、1塁側は早稲田、3塁側が慶応。観客は学生のみ4000名が入った。慶応には小泉塾長も姿を見せ3塁側応援席に入られた。慶応大学の情熱は早稲田野球部のメンバー、観客の学生達に熱く伝わり、激しくなる戦況の中で、伝統ある早慶戦という野球を通しての人と人の心の繋がりが、戦争に立ち向かう若者達の勇気を醸し出していった。

 試合は、10対1で早稲田が勝ったが、ここに至る迄の経過はすべての点で慶応が勝っていると暢一氏は自著で述べられている。

 試合が終わり、暢一氏の音頭で「海ゆかば」 (出征時に一般にうたわれた歌)が静かに始まり、やがてスタンドを埋め尽くす大合唱に変わる・・・

この最後の早慶戦は、後に映画にもなり後世に語り伝えられていく。

以下、相田暢一氏著書「あ々安部球場 紺碧の空に消ゆ」から引

 「秋が来た。秋はぜひとも早慶戦だけは決行しなくてはならぬ。しかし秋の学生は、学年試験や勤労奉仕にそれからそれと多忙を極め容易に交渉がはかどらなかった。そこへ突如として降ったものは、国内体制の強化であり、学徒徴集猶予の停止であった。当然来るべきものが来たに過ぎないのであるから、学徒出陣の気勢は噸に昂揚され、彼らの身辺には国難を背負うて起つ気概が溢れていた。しかし中途にして学業を廃し、懐かしい母校を離れて、戦塵の中に身を投ぜんとする彼らの胸中の感懐もまた見落とし難いものがあった。大学当局は、それぞれの衷情を察して種々の壮行の催しをした。壮行講演会、壮行映画会、さては壮行行進等種々親心を示すに遺憾はなかったようであるが、心ある大学当局にはそれ等をもってもなお喰い足らぬ感情を抑えることが出来なかった。もっとも印象に残る歓送会、荘重にして無限の母校愛を表徴する壮行会、それを名残として勇ましく校門を去り、戦陣への首途をさせることが出来たら、征くものもとどまるものも何らの心残りがなく、やがてそれ等の大行事は、露営の夢に懐かしまれ、ありし日を瞼に浮かべて母校学びの庭に愛惜を送るよすがともなるであろう。これはあらゆる障害を排しても決行されねばならない。

 このしみじみとした親心を以て、早慶野球戦を行わん決意を固められたのは、慶応の野球部長平井新氏であった。春以来の行きがかりをさらりと捨てて、あくまでも出陣学徒のはなむけに大早慶戦を行わんとの意図に燃えた平井部長が、わざわざ小宅を訪問されて、斡旋方を希望されたのは10月6日であった。出陣学徒に強烈なる印象を焼き付け、両大学の学徒に学生時代の思い出を深く刻み込ませるもの早慶野球戦以外何ものがあるであろうか、という平井氏の熱情に感激した自分は、直に早稲田の野球部長外岡茂十郎氏を訪問して慶応の意のあるところを伝え、万難を排してこれを決行されたき旨を力説した。外岡氏の出陣学徒に対する情熱もまた平井氏に譲るわけがなく、直ちにこれを大学当局に図り、早慶戦成立に奔走するところがあった。しかも早稲田の当局からは多少の条件が提出されるなど、その会戦には相当難色を思わせるものがあったが、慶応は一切小事にこだわらず、すべて出陣学徒壮行の意義に重点をおいて早稲田の希望を容れ、10月16日の決行を急いだのであった。

 この早慶野球戦が円満に締結され、始終感激の中に行われて学生野球悠久の思い出として残ることのできたのは全く、小泉塾長以下慶應幹部の早慶野球戦愛重の真実さと寛容にあるべく、平井氏の熱意と努力とを合わせて深く記憶しておかねばならぬ。

 ことにその試合がかつての早慶戦中の異色であり、ただ感激に始まり感激に終わった光景は、両大学の学徒を戸塚球場に温かく抱きしめ、世紀の試合に恍惚たらしめたものといっていい。」

昭和20年10月暢一氏は早稲田大学法学部に復学、戸塚の合宿を訪れ合宿所の再建に取り組む。12月には野球部の初の学生監督に就任。創設者安部先生の唱えられる「野球道」を再興した。被災したグランドも使えるように修復し、選手達の空腹を満たすべく食料調達にも励んだ。幸い保管していたバットやボールには不自由することなく、他の大学にも分け与え、六大学野球リーグも翌21年には再開される。この年に今までの摂政杯を返還し、新たに天皇杯を御下賜される。早稲田は秋のリーグ戦で優勝し初めての天皇杯を獲得。(摂政杯の最初の拝受校でもあった)

昭和24年2月安部先生逝去、戸塚球場を安部球場に合宿所を安部寮と呼ぶことになった。

 相田氏は昭和22年に早稲田大学法学部を卒業され、以降大学野球、高校野球、都市対抗野球などアマチュア野球界の理事や審判員を務めアマチュア野球界の発展に貢献された。

ご子息であられる暢正氏は、父にはいつも「人に迷惑をかけない」と教えられていたという。これは早稲田大学野球部精神の中心であり、安部先生から始まり引き継がれている教えである。