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2018.10/15更新

 

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高坂丘陵周辺の氏神さま (その3)

 高坂周辺は都幾川の流域の肥沃な土地を利用して古くから人々の営みが開けている。農業に必要な 水は、都幾川から、また背後に広がる岩殿台地からの伏流水が表れるたくさんの沼などから得ていた。 かつての人々は生活を脅かす自然の脅威や、疫病から身を守るため神々を崇め、それぞれの集落に 氏神様を祀り、安寧を祈願してきた。これらの神社にはそのため古くからのしきたりが伝えられている。
 
9 拂田稲荷神社 (ほったいなりじんじゃ) 東松山市高坂1232
 
 東松山市高坂は東京都心から西北へ、およそ50Kmに位置するのどかな田園地帯である。 その中心東武東上線高坂駅はいま、近くにある大東文化大学と東京電機大学キャンバスの学 生たちで朝夕賑わっている。この神社はその駅から線路沿いに100mも離れていない住宅地 のただ中にある。かつては都幾川や越辺川から離れた高台のこのあたりは畑が広がりとりわけ 桑を栽培し養蚕が盛んになった。特に盛んになった明治以降、この神社はお蚕の神様として比 企周辺一円に崇められ、春の養蚕が始まる前の3月の「春祭り」は「お蚕祈祷」と呼ばれ、信者は 拂田講と呼ばれる講を結成しこぞって参詞し、「掃き立て紙」(お蚕の卵を孵化をさせる台紙で 中央に繭の形がありその中に「拂田神社守護」の印が押されていた)を授かった。 神社のいわれは1500年頃、京都伏見稲荷大社から倉稲魂命(うかのみたま 稲を司る神)を 勧請し創建されたといわれる。以降田畑の五穀成就を祈願する神として、特に1800年頃から 高坂の人々から厚い信仰があり、境内、参道などが拡張整備された。明治の神仏分離までは近 くの長松寺の管理であったが、以降現在まで澤田家が神職として管理され、今もこの地域では 箭弓神社と並んで神職の常駐される神社である。 祭事は元旦祭り、春祭り(3月二の午、もしくは三の午の日)、冬至祭り(12月22日)
拝殿正面の佇まい 左側に子育稲荷社が合祀されている
他の神社では内陣は解放 されていない
入り口鳥居の右側の神社碑 「正一位拂田稲荷神社」と読める
拝殿入り口に掲げられる神額 「拂田稲荷神社」

本殿の左側に合祀されている 「子育稲荷神社」

通称「お子持ち様」は子育ての神様と して地域に信仰されている。子供が生 まれると参詣し、眷属像を納めて成長 の無事を祈願する。 昔は願のかなった人は神様の好む 「たばこ」を感謝の印として奉納した。

子育稲荷社

かつて若き母親たちが子供の 健やかな生育を願った社、 医療など整わない時代に神すがる姿に思いを馳せると・・・・・

拂田稲荷神社の参道は今は住宅の間の通りに変わっている。
神社の裏は東武東上線の線路、すぐ近くの高坂駅からひっきりなしに電車が発着する。 かつて栽培していた沢山の桑の木は越辺川の河川敷まで行かないと見当たらない。
   
10 熊野神社 (くまのじんじゃ) 東松山市岩殿1239
 
 熊野神社は岩殿山の中腹、かつての巖殿観音の門前町である岩殿集落の参道の中ほど山懐に抱 かれた林の中にある。古くから岩殿山の地主神とされ明治初年まで八王子権現社と呼ばれ、その 勧請は700年代といわれる。この頃近くの正法寺巖殿観音堂も創建され、これは当時比叡山延暦寺 を引き継ぐ天台宗の寺院として開山された。また併せて当地に比叡山の地主神である八王子権現 社と、延暦寺の信徒を守護する護法神として山王権現社の二社を勧請され建立されたと言われる。 明治の初めまでは当社も正法寺の元で管理されいわゆる神仏習合だったが、明治の神仏分離令に より正法寺から離れ村社として社名も「熊野神社」に改称された。
巖殿観音参道から 熊野神社の杜へ
社殿に至る石段 昭和3年11月16日造営工事関係者名が刻まれている
熊野神社社殿
熊野神社屋根の鬼瓦 熊が刻印されている
   
11. 葛袋神社 (くずぶくろじんじゃ) 東松山市葛袋853 
 
 大手の配送センターなどの建物が並び様変わりしたこの地区に坂東山(標高85m)が在った が、昭和29年からセメント原料の石灰岩の採掘で山容も姿を消した。セメント工場もなくなり、 この数年前から工業団地として再開発が進み、大手配送センターなどの物流の拠点となって いる。かつてこの坂東山に村の鎮守、白髭神社など4つの神社があったが、明治の初め坂東山 にあった五社権現に白髭神社を合祀し、「五社大神白髭大神社」となり、その後残りの社を合祀 し、明治の終わりに「葛袋神社」となった。大正五年には社の場所も坂東山から現在地に変更さ れた。社殿の隣には地域住民のための集会場、葛袋公会堂が建つが工業団地造成に会わせて 一新されている。
葛袋工業団地の配送センターと葛袋神社、中央は葛袋公会堂
神社入り口の鳥居 左は整備された駐車場、右は 今も残された神社の杜
参道を進むと広い駐車場と並んだ 境内、工業団地の造成に会わせて 整備された神社と祈念碑
葛袋神社
神社本殿の左には合祀されている社がある 神社に掲げられる神額
 

社内は左から

大黒天

金比羅神社

金毘羅大権現

大黒天

が祀られている

   
12 神戸神社 (ごうどじんじゃ) 東松山市神戸875
 
 東松山市神戸地区は西と南を岩殿山地が取り囲む山間の集落で、その山地は今はゴルフ 場となっている。かつてこの神社はその山地に在り、あたりは「天王山地」と呼ばれていた。 現在は都幾川が作った平地の外れ、神戸公会堂の脇に置かれている。この神社もかつては当地にあった真言宗善能寺が管轄していたといわれ、牛頭天王をお祀りしていた。善能寺は 今は無く、その寺跡には歴代の法印の墓が残されている。  当社は明治の初め八雲神社と改称し以後近くの3つの社を合祀し明治40年に神戸神社と 改称された。ここには本殿の前の庭に「ササラの庭」と呼ばれる土俵のような空間がある。 7月24,25日の例祭にはこの庭でササラと呼ぶ獅子舞が催される。また以前干ばつの雨乞いで都幾川の河原においても舞いが行われたという。  今でも神社は地域の生活と密接に関わり、社殿のすぐ脇には神戸公会堂が建ち、神事と地 域の日常生活が溶け合っている。
神戸神社全景と獅子舞が行われる境内のササラ庭
越生に至る県道脇の神戸神社入り口
入り口脇にある神社例祭で舞う「獅子舞」の案内板  
 赤い鳥居には太い注連縄が張られている
   鳥居にある「牛頭天皇宮」の神額
拝殿の全景
屋根と鴟尾(しび)
向拝の内側
   
13 氷川神社 (ひかわじんじゃ) 東松山市下押垂(しもおしだり) 364-7
 
 当社はかつて、たびたびおそった都幾川の水難から村の鎮守として1700年代、大宮の 氷川神社の分霊を祀った事から始まったと言われる。当時は神仏習合の中で、運営は別当 の西福寺が行っていたという。明治6年に神仏分離令により村社となった。祭神は素戔嗚 尊(すさのおのみこと)で、後に近くの日枝神社の大山咋命(おおやまくいのみこと、農耕の 神)が明治の終わりに合祀された。社は本来国道407号線の東松山橋あたりにあったが、昭和50年河川改修と共に現在地に移った。都幾川堤防の何もない外側に、此処だけ桜と杉の木が植えられている。  
都幾川堤防の外側、水田の広がる中に建つ氷川神社、境内には桜の木が植わっている。 神社の後背は杉林。境内入り口脇には下押垂の公会堂がある。
氷川神社入り口鳥居 石敷の通路の向こうに水塚 がある
水塚の上に立つ社殿
お水屋から社殿
境内に設置されている 手こぎポンプ
都幾川左岸堤防上から見た 社の建つ水塚
春は土手から見下ろせる桜の隠れた名所
   
14 天神社 (てんじんじゃ 又は じゅうにてんさま)
  東松山市下野本969
 
 もともと当社は十二天社と呼ばれていた。十二天とは東(帝釈天)、東南(火天)、南(閻魔天) 西南(羅刹天)、西(水天)、西北(風天)、北(毘沙門天)、東北(伊舎那天)の8方位と、天(上)(梵天) 地(下)(地天)、日(日天)、月(月天)を会わせた十二天。密教を基とした仏教の守護神で方位を 守り天地を守る神とされる。これらは絵画などの画像として現存している。御利益は災害消除、 国土安泰といわれる。
 当社の創建は1600年代、滝瀬家の氏神とされてきたが、やがてこの集落の鎮守となった。 ここも明治の神仏分離までは天台宗の聖徳寺の管理であった。この寺も今はない。  この境内には射軍社(しゃぐんしゃ)、三峯社が併せて祀られている。射軍社について通称 「おしゃぐじさま」と呼ばれ、様々な願いをかなえていただける神様として、特に百日咳に御利 益が在ると言われ、古くから崇められてきた。
天神社境内、社は石段を登った土塁の上に建つ
県道脇の神社入り口
木製の鳥居
天神社
社殿の上に掲げられた神額「天神社」
鳥居を入ってすぐ左に合祀されて いる射軍社(左)と三峯社(右) 射軍社について調べてみるが、 この名前の神名が見当たら ない。「おしゃぐじ様」がネット でヒットする。 日本古来からの神「原始神」の カテゴリーに入る神ではないか と記述あり。(ex.塞の神) 悪疫を退散させる、難病を伏せる 等のご利益がある。
   
15 鷲神社 (わしじんじゃ) 東松山市今泉(いまいずみ) 278
 
 当社は1500年代に久喜市にある「鷲宮神社」から勧請したと言われている。杉林の中に建立 されている当社の周囲には、国道254号線が近くを走り、近隣には配送センターなどが進出し 市街化が進行している。当社の境内入り口には今泉公会堂があり、周囲は小さな公園で備えら れた遊具で子供たちが遊んでいる。
 昭和の初め頃はこの一帯は一面うっそうと山林が広がり、氏子からは鷲山と言われていたと いう。当時当社を管理していたのは真言宗鷲宮山宝蔵寺で、明治の初めの神仏分離令により宝 蔵時からわかれ、明治の終わり頃に今泉村村社になった。村民は御嶽講や榛名講等を組織し連 れだって御嶽山や榛名にお詣りし、おたがいの絆を強めた。それを記念する石碑が社の周りに 残されている。
  林の中の鷲神社
神額 「正一位鷲宮大明神」と記 されている
本殿正面 商売繁盛厄難消除・病気平癒 五穀豊穣・厄除け・魔よけなど
社の左右に石碑・石像群が置かれて いる
左側に置かれた石碑群 右側に置かれた石碑
右側に置かれた石碑 右側に置かれた石像